映画『悪夢は苛む』徹底考察!
ラストの意味:ダヴィドの正体
ラストではダヴィドがマルコ(アマンダの夫)の車に乗り込みましたが、その時にニナが大事にしていたモグラの人形を抱えて、冒頭のニナと同じ姿勢で座っています。
これは、緑の家に連れて行かれたニナの“魂”がダヴィドに乗り移ったことを示唆しているのでしょう。
ボートの上で瀕死のアマンダの「娘をそばへ」という言葉に対して、ダヴィドが「アマンダ僕はここだ」と答えています。
冒頭からアマンダと回想でしゃべっていたのは、ダヴィドでもあり娘のニナでもあるのです。
“移し”の儀式の意味
結末としてダヴィド=ニナになっていると解説しましたが、それはあくまで表層部分であり、“移し”の儀式の意味を考えることが作品を理解する上でとても重要になってきます。
カローラは息子ダヴィドが毒に侵されて死にそうになったとき、“気”を操る術師のおばあさんがいる緑の家へ連れて行きます。
おばあさんは“移し”という儀式でダヴィドを救うことを提案。具体的にはダヴィドの魂を肉体から解放して別の健康な体へ入れれば、毒の一部も魂についていき肉体は助かるというものです。
ダヴィドは魂と肉体、2つに分離して生きていくことになります。
ダヴィドの魂はどこか他の体、もしくは他の場所へ行ってしまうので、もう以前のダヴィドではありません。肉体には代わりに別の魂が入ります。
おばあさんは儀式の際、水の入った2つのバケツと糸を用意していました。
儀式の全貌は描かれていないので推測になりますが、2つのバケツは母カローラと息子ダヴィドを表しているのだと思います。
そうすると糸は臍(へそ)の緒でしょう。
母と息子の間では、生まれたときに肉体的な臍の緒は切れますが、精神的な臍の緒(心の結び付き)は目に見えなくても強く存在しています。
この精神的な臍の緒こそが、子供の魂を肉体に繋ぎ止めているものなのかもしれません。
おそらく“移し”儀式では、この糸を断つのでしょう。
結果親子の精神的な結びつきが切れ、カローラは治ったダヴィドを抱きしめもせず、「息子ではない」と感じるようになります。
“移し”の儀式について緑の家のおばあさんの言葉をそのまま取れば、ダヴィドの魂は誰か他の子供の体の中に入っているはずです。フワッとした説明ですし、回想でのアマンダとダヴィドの会話を聞いていると、魂が全部出ていくのか、半分になったのかもよくわかりません。
深読みになりますが、ダヴィドの魂が、ニナの魂がどこにあるかアマンダに教えるサポートをしたというのが、映画『悪夢は苛む』の本質ではないでしょうか。
ダヴィドと母カローラとの結びつきは切れてしまいましたが、彼のさまよえる魂か、肉体に残っていた魂の一部が、ニナの魂に同じ思いをさせたくない、と手助けしてくれたのだと思います。
つまり単純にダヴィドの魂がニナになったのではなく、2人はある意味一体化しているのです。だからダヴィドは冒頭で「僕」ではなく「僕ら」と言っているのでしょう。
では残りの、ダヴィドの魂はどうなったのか?ニナの体に入っているのだと思います。
これは、ダヴィドがニナと水の中の砂鉄を磁石で対極に寄せる実験をしていたことが理由です。この実験が“移し”の儀式の図解になっているの考えられます。
砂鉄は2つの魂が混ざったもの、2つの磁石がダヴィドとニナとすれば、移しで肉体から出て行った魂は何の法則もなく誰かの体に入るのではなく、引き寄せられる相性がいい人物と交換されると推測することができます。
そうすると、ダヴィドがニナと仲良しで、勝手に家の中に入ってアマンダのベッドに来ていたのは、“ニナになる予兆”を感じ取っていたのでしょう。
もしくは時空を超えたニナの魂がダヴィドを器として、母アマンダを見つめていたと言い換えられるかもしれません。
糸が絶たれた意味
ラストシーンでダヴィドが言った「糸が絶たれた」というのは、先ほど説明した“移し”の概念を踏まえた上で、原題のスペイン語『DISTANCIA DE RESCATE』=救える距離に対しての言葉で、抽象的にもう救うことができないという意味でしょう。
アマンダは死ぬ間際に、「お腹に巻き付けられた糸がニナに引っ張られて張り詰めている」と言い、ダヴィドは「糸が絶たれた」と続けます。
ニナとの精神的な結びつき(臍の緒)が絶たれてしまったということですが、ニナは「危険を見通せなかったせい?」とも言っているので、もっと大きな局面で捉えることができます。
アマンダを母なる大地、ニナを人間と考えると、アルゼンチンの大地が農薬で汚されて死に、子供たちをもう救えないというメッセージだと思います。
農薬の犠牲者の訴え
ここまでの考察の根底にあるのが、アルゼンチンの農薬問題です。アルゼンチンでは、安全性が低いものまで農地に撒かれ、水が汚染されるなど深刻な環境問題になっています。
ダヴィドが川に浮いていた生き物を庭にたくさん埋めていたのも、死んだ生物を弔う意味があり、劇中で健常者ではない子供たちがたくさん出てくるのも農薬が健康を損なっているという問題提起です。
おばあさんの儀式“移し”についても抽象的に捉えれば、子供が農薬に汚染され、その毒が他の子供の体の中にいる汚染の伝播をメタ的に表現しています。
ニナが持っていた人形がモグラなのも、農薬で土壌・水質汚染が進みモグラなどが住めなくなっている、犠牲者を表しているのでしょう。
ニナがカローラを見て、「あの人はモグラを持っていっちゃうの?」と言っていましたが、これも本作のラストでわかる環境問題のメッセージに対する伏線になっています。
カローラは地元の農薬を扱う会社で働いています。
つまりモグラを持って行っちゃう=大人が農薬で生き物や子供が住めない土地にしていると伝えているのです。
最後のまとめ
Netflix映画『悪夢は苛む』について色々考察してみましたが、それぞれのシーンや事象に対して視聴者それぞれの解釈ができるので、答えは1つではなくたくさんあり、かつ同時に存在するといえるでしょう。
ここまで読んでいただきありがとうございます。『悪夢は苛む』レビュー終わり!
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