ウィル・スミス アカデミー賞で平手打ちはなぜ?ビンタは正しい擁護,言葉の暴力の問題点,日本とアメリカの違い

  • 2024年4月7日

言葉の暴力に対するウィル・スミスのビンタは正しい行為か?

ここまで読んでもらって、このウィル・スミスのアカデミー賞暴行事件が微妙なバランスの上に成り立ったケースだとわかっていただけただろう。

それを踏まえた上で、あくまで今回のケースに限って、ウィル・スミス擁護派!と何があっても暴力は絶対ダメ派!に分かれてもらうのは問題ないと思う。

裁判が行われるわけでもなさそうだし、正しい正しくないの議論といより、これ以上は個人個人の道徳的な価値観や背景に委ねられるといったほうが近いだろう。

両儀的で価値観や論じる人のバックボーンが関わってくる感情論に帰結する面があり、言い争いになっても論理的な答えは出ない。それぞれの正義論がぶつかるだけだ。

答えがない問題だとまずは知り、お互い意見を尊重しつつ議論するのがよいと思う。

よくないのはこの件に関して「俺の主張の方が正しい」と感情的になって押し付けてしまうことだ。

正しい正しくないの答えが出ないなら意見を言うこと自体が無駄だと思うかもしれないが、異なる意見を知って認め合うことは、道徳的な思考を深めるうえでも、少しでも多様性のある社会を作っていくという意味でも一定の価値があるだろう。

法律だけで判断できる問題ではない?

今回の件で、暴力は暴力だからウィル・スミスが悪いという考え方はもちろん理解できる。

ただ、それを支持する理由が「法律で暴行罪に当たるから!」ということだけだったら、もう1度考えてみた方がいいと思う。

なぜなら今回のビンタ事件は、法律の問題だけでなく、何度もいうように道徳の問題も含んでいるからだ。

「暴力は暴力!法律は法律!」では、法律がいつでも万能だという前提のもとの思考停止の状態になってしまっているかもしれない。

例えば、ゴロツキみたいなのが近所にいて、子供が外に出るたびに毎日ひどい悪口を言われまくっていたとしよう。

そのゴロツキを説得しても全く理解してくれないので、あなたは胸ぐらをつかんで大声で説教した。

法で考えれば胸ぐらをつかんだだけで暴行罪である。

ただ胸ぐらをつかんで説教しなければ、子供はずっと悪口を言われっぱなしになって人生に重大な影響を受けてしまったかもしれない。(引越しという選択肢は貧乏だからできないとする)

そういうパターンを考えれば、法で何もかも守れるわけではないとわかるだろう。

言葉の暴力への正当防衛にするのはダメ

ウィル・スミスの平手打ち事件が報じられるうえで1番の問題は、ここで「言葉の暴力も暴力だ!」という過度な一般化・抽象化が起こってしまうことだ。

Twitterでは「言葉の暴力」がトレンド入りし、ウィル・スミスと妻は言葉の暴力を受けたので、今回の暴力(平手打ち)は致し方なし!という論調があるが、これについては異議を唱えたい

ウィル・スミスの行動を全否定したいのではなく、言葉の暴力というワードの登場が問題の勝手な一般化につながっているためによくないと思う。

そもそも今回のケースは捉える側の価値観・道徳観で意見が分かれるため、特殊なパターンとして認識すべき問題だからだ。勝手に主語を大きくしてしまうと誤解を生む危険がある

今回のあくまで、酷すぎるジョークがアカデミー賞授与式で全世界配信された、自分のための暴力ではないなどの条件が重なり、総合的に心情的にウィル・スミスを擁護できる一面もある、となっただけだ。

仮にウィル・スミスがグーで殴ってたなど、少しでも条件が違えば世論はまったく違うものになった可能性も大いにありえる。

言葉の暴力VS暴力の図式に置き換えて、一般化した説明をしようとすること自体に少し無理があり、あくまでアカデミー賞におけるウィル・スミスとクリス・ロックのトラブルと、ある程度具体的に認識すべき問題だ。

先ほど説明したように擁護するかしないかは個人の価値観や感情の問題につながる。感情が関係するということは、抽象化して「この問題と同じだ」と並列にみえる構図を作り出すことで意味が大きく変わる可能性がある。

もちろんある程度身近なものに置き換えて思考するプロセスは必然だが、全貌について話すときには一般化させて語るべき問題ではないことをまず共通の前提としておくべきだろう(大人はいいかもしれないが、小中学生が変な解釈をしてしまう可能性もあるので)。

結果として今回のように擁護の意見が生まれるケースはあるが、事前にどう傾くか結果がわからない問題に対して、言葉の暴力は体への暴力と同じだ」と、何にでも適応可能かのように語るのは、少なくても社会全体にとっていい影響を及ぼさないだろう。

(もちろん、何を前提とすべきかしっかりわかっている人もいると思うが、SNSやネットの特性上触れておきたかった)

最後に

スッキリ答えを出すのが難しく、ウィル・スミスのアカデミー賞暴行事件をスッキリまとめられたとはいえないが、何が本当の問題か気づくきっかけくらいにしてくれたら幸いです。

ここまでいろいろな例をあげて書いている私の意見は?と問われると、やはり「気持ちはわかるけど、公の場で暴力に訴えるべきではなかった」ということになります。

やや煮え切らない結論ですが、感情と行動で矛盾を抱えるのが人間であり、この問題を捉える人それぞれが、どう向き合うかで人間性が問い直されている側面もあるでしょう。

何か意見があればコメントをお願いします。