映画『ドリームプラン』で第94回アカデミー賞主演男優賞受賞の快挙を成し遂げたウィル・スミスだが、受賞発表の数十分前にMCのクリス・ロックを平手打ちしたことも大きな話題を呼んだ。
多くの人が私のように、微妙な心情の狭間で揺れて、答えが出せないのではないだろうか。
日本のTwitterなどSNSだとウィル・スミス肯定派が結構多いイメージ。対してアメリカなどのメディアではウィル・スミスを否定する声が多いようだ。日本とアメリカの捉え方も違って面白い。
世界が注目するアカデミー賞授与式でのこのビンタ事件は、社会人として道徳的にしっかり考える価値があると感じたので、ウィル・スミス擁護派が多い理由や、言葉の暴力の正当化についての是非を記事にしてみました。
ちなみに自分の意見を言わないのもずるいので最初に述べておくと「心情は理解できるが、ウィル・スミスは公的な影響力を持っているので、授賞式でのビンタはやはりよくない」というのが個人的な結論です。
ただ記事については、私はこういう意見だ!と断定するものではなく、論じるためにいくつかの視点を提供したものになっています。
あくまで個人的な意見だと言うことを踏まえて読んでいただけると幸いです。
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賛否は3パターンに分けられる
まず、今回のアカデミー賞でのウィル・スミス平手打ち事件については、心情と行動への理解を分けて考えたほうが賛否の立場がより明確になりやすいと思う。大きく3つのパターンに分けてみた。
- 心情を理解できるし、平手打ちも致し方ない
- 心情を理解できるが、平手打ちはダメ
- 心情からして理解できず、平手打ちもダメ
おそらく日本のネット上では①か②の意見が多いのではないか。①と②で揺れている場合は平手打ちという行為の罪が重いか軽いかが議論のポイントになり、③の人はウィル・スミスの行動原理を追求するべきだ。
いずれにせよ、自分がどの立場か分かった上で今回の事象を考えると、より全体を理解しやすくなるはずだ。
(ちなみに論理的には、心情は理解できないが平手打ちはOK、という変なパターンも出てくるが、超少数派だと思うので除外。)
ウィル・スミスの暴力 擁護派が多い理由
今回の第94回アカデミー賞授与式ビンタ事件で、日本では意外とウィル・スミス擁護派が多いのはなぜだろう?
結論から言うと理由はこの3点だと考える。
- 平手打ちに見合うひどいジョークだった
- 妻のための自己犠牲的な行動だった
- グーじゃなくてビンタだった
大衆がこのような認識しているからではないだろうか。
ひとつひとつ考えてみよう。
平手打ちに見合うひどいジョーク
まず1つ目は説明するまでもないかもしれないが、プレゼンターのクリス・ロックの発言が一般的なジョークの範疇を超えてひどすぎる問題。
脱毛症で悩む妻ジェイダ・ピンケット・スミスを「G.I.ジェーン」(丸坊主にする女性軍人の話)とからかうのは大いに理解に欠ける発言だ。
病気で髪が仕方なく抜けてしまった人に対して、「ハゲ!」と揶揄しているようなものだから、コメディアンのクリス・ロックは人格を疑われても仕方ないかもしれない。
この点をわかりやすく言えば、オーディエンスの心情は「暴力は良くないけど、コイツ(クリス・ロック)はそもそも人としての良識が大いに破綻しているので、罰を与えられて当然だ」というほうに傾いたわけだ。
少し派生的なことになるが、ジョークの質を問う場合、クリス・ロックがジェイダの脱毛症を知っていたか知らなかったかも論点となり得る(実際クリス・ロックは知らなかったらしい)。
しかしウィル・スミスとジェイダ側から見れば、クリス・ロックが病気のことを知っていようがいまいが精神的苦痛に変わりはない。
今回の件でいえば、「クリス・ロックがそこまで悪くないかも」という意見には繋がるが、ウィル・スミスの行動を問う際には別々に考えたほうが良いだろう。
ただ、スタンダップコメディなどを見るとわかるようにアメリカでは日本では考えられないどぎついジョークや風刺が許容されているのも事実で、上手いジョークであれば差別的発言も一定許される文化がある。
日本に比べると、そもそもアメリカではクリス・ロックのジョークがそこまで酷いものだったと認識していない人が多いのだろう。
妻のための自己犠牲的な行為が美しく見えた
ウィル・スミスのビンタ擁護の心情になる最大の理由がこの点ではないだろうか。
日本で暴力を振るったウィル・スミスを支持する人々が少なくないのは、彼の行為が家族のための自己犠牲的な美徳だという側面が強いからだ。
彼は自分が非難を受けるのをおそらく承知で、妻はそんなジョークに値しないと主張するためにプレゼンターを殴った。
もしもウィル・スミス自身がひどい悪口を言われて平手打ちでやり返したなら、恐らくもっと非難されていたかもしれない。
だが今回のアカデミー賞授与式では、彼は妻のために立ち上がり、クリス・ロックの発言への断固拒否を表明した。
言い換えれば法律より、家族の名誉を守るという美徳を重視すべき場合もあるという擁護論だ。
さらにいうと、いくら先進国の法治国家といえども法律は全知全能ではないという認識があり、今回は法でキッチリ区切れないパターンだと捉えられたのだろう。
そして、日本人的な感覚で言えば、これは“恥”を重んじる侍文化にも通ずる。
日本で擁護派が多いのはサムライスピリットに起因するのかもしれない。ここが日本とアメリカで意見が大きく分かれる要因だと思う。
ちなみに最初の項目で③だった人からすれば、ウィル・スミス自身はクリス・ロックのジョークで笑ってしまっていたから、ビンタは演出的な行為だったという意見もある。
ただ仮にそうだとしても、妻ジェイダが悲しんでいる顔を見て抗議しなくてはならない!と考え直したなら、妻の名誉を守りたいという動機が完全に崩れていたとまではいえないだろう。
また話を広げると、妻ジェイダやウィル・スミスがお互いに不倫をしていたというのも有名な話のようだが、だからといって侮辱を言われた側の私生活が荒れているから気持ちを考えなくても良いという論理にもならない。
グーじゃなくて平手打ちだった
ビンタのセーフ感の理由
前の2つよりは論点の粒感が若干小さくなるが、ウィル・スミスがグーではなく平手打ちだったと言うのも、世論の意見を大きく左右したと思う。
少なくても彼にはパーで叩くという理性があり、怒りに任せて暴走したわけではないという印象を与えるためだ。
平手打ちなら女性が無礼な男性にして許される場面が多い気もするし(ウィル・スミスのはちょっと強かったかもしれないが)、暴力はダメだとしても諭すようなショック療法的なイメージもある。
何よりアメリカの映画やドラマで女性のビンタはよく出てくるし、水をぶっかけるなんてこともしょっちゅうだ。フィクションだからもちろん暴力が問われることはないが、話の流れで警察沙汰となることが少ないなら、ある程度ビンタに対しては許容の精神があるのだと思う。
その場合、ウィル・スミスのビンタの強さが争点になるのかもしれない。(ただし、ビンタの強さなんて見ている側は実際わからないし、日本で道徳を考える場合にそこまで考慮するかは少し疑問だ)
暴力を先行させないと何かを守れない場面がある
もちろん私も基本的にどんな場面でも暴力はNGという考えだ。
しかし暴力全般が情状酌量の余地なく一切ダメだという主張なら(法律はそうだが)だいぶ息苦しい変な世の中だとも思う。
例えばホームパーティーで、「君は実の息子ではなく養子だ」といきなり隠していた真実を子どもに語ろうとする変わり者の話を首根っこをつかまえて遮るのもアウトだ。
この場合、言葉で説得していたら間に合わず、家族の人生に関わる重大な秘密が漏れてしまうことになる。(ちなみに水をかけたり何か物を投げて話を中断させるのも暴行罪的にはアウトだ。)
ウィル・スミスの場合は妻ジェイダがジョークで受けたダメージがどの程度か客観的に測ることはできないが、あの舞台で言葉で言い返したら逆に応酬になり、妻・ジェイダへの酷いジョークが続く可能性があったことは否定できない。
状況的に下手に言い返したら、クリス・ロックならもっと辛辣なジョークを返してくるだろう。ファッ○ばっかり言っているイメージのウィル・スミスが口で勝つのは難しそうだ。
そしてすぐに壇上で意思表示しなければ、アカデミー賞で許容されていたからと、妻への容姿イジリが多方面へ拡大することもありうる。
もちろん暴力以外でどうにかできれば良かったが、ウィル・スミスにしてみればビンタが状況的に1番効果的な選択肢だったのかもしれない(捕まるリスクも含めて)。
グーパンチなら確実にアウトだっただろう
もし仮にグーパンチだったら、意見にNoを突きつけるというより相手に怪我を負わせる目的もあったという印象になり、日本での擁護の意見も少なかっただろう。
ちなみにビンタされたクリス・ロックは被害届を出していない。(アカデミー賞運営側は調査中のようだ)
アカデミー賞授賞式だから大問題!
思考実験的に考えて欲しい。
もし仮にウィル・スミスとクリス・ロックのこのやり取りがホームパーティーなら、妻を侮辱されてビンタした男と、言い過ぎた男のちょっとした小競り合いとなり、三文ゴシップくらいにしか認識されないかもしれない。
しかし今回の舞台は世界で10億人が視聴するアカデミー賞授賞式。
世界一ともいえる晴れ舞台での行動は、プライベートで起こった些細なトラブルとは違う受け止め方をせざるを得ない。世界的に影響力がある俳優としての責任も伴っている。
しかもウィル・スミスは数年前に、アカデミー賞で投票するアカデミー会員が白人男性だらけだという問題提起をして、有色人種会員の割合を増やした人種差別におけるヒーロー的な存在。
影響力を持ち、実際に素晴らしいことを成し遂げてきた彼が主演男優賞受賞の晴れ舞台。そこで暴力に訴えてしまった。
妻のために立ち上がった男というだけでなく、より広い文脈で考えるとかなり落胆すべき出来事だという主張も理解できる。
ロシアのウクライナ侵攻の問題も重なり、世界で一番平和を叫ぶに相応しい場所で、卑劣な言葉に対して暴力で返してしまうというのはある種残念だともいえるだろう。
言葉の暴力に対するウィル・スミスのビンタは正しい行為か?
ここまで読んでもらって、このウィル・スミスのアカデミー賞暴行事件が微妙なバランスの上に成り立ったケースだとわかっていただけただろう。
それを踏まえた上で、あくまで今回のケースに限って、ウィル・スミス擁護派!と何があっても暴力は絶対ダメ派!に分かれてもらうのは問題ないと思う。
裁判が行われるわけでもなさそうだし、正しい正しくないの議論といより、これ以上は個人個人の道徳的な価値観や背景に委ねられるといったほうが近いだろう。
両儀的で価値観や論じる人のバックボーンが関わってくる感情論に帰結する面があり、言い争いになっても論理的な答えは出ない。それぞれの正義論がぶつかるだけだ。
答えがない問題だとまずは知り、お互い意見を尊重しつつ議論するのがよいと思う。
よくないのはこの件に関して「俺の主張の方が正しい」と感情的になって押し付けてしまうことだ。
正しい正しくないの答えが出ないなら意見を言うこと自体が無駄だと思うかもしれないが、異なる意見を知って認め合うことは、道徳的な思考を深めるうえでも、少しでも多様性のある社会を作っていくという意味でも一定の価値があるだろう。
法律だけで判断できる問題ではない?
今回の件で、暴力は暴力だからウィル・スミスが悪いという考え方はもちろん理解できる。
ただ、それを支持する理由が「法律で暴行罪に当たるから!」ということだけだったら、もう1度考えてみた方がいいと思う。
なぜなら今回のビンタ事件は、法律の問題だけでなく、何度もいうように道徳の問題も含んでいるからだ。
「暴力は暴力!法律は法律!」では、法律がいつでも万能だという前提のもとの思考停止の状態になってしまっているかもしれない。
例えば、ゴロツキみたいなのが近所にいて、子供が外に出るたびに毎日ひどい悪口を言われまくっていたとしよう。
そのゴロツキを説得しても全く理解してくれないので、あなたは胸ぐらをつかんで大声で説教した。
法で考えれば胸ぐらをつかんだだけで暴行罪である。
ただ胸ぐらをつかんで説教しなければ、子供はずっと悪口を言われっぱなしになって人生に重大な影響を受けてしまったかもしれない。(引越しという選択肢は貧乏だからできないとする)
そういうパターンを考えれば、法で何もかも守れるわけではないとわかるだろう。
言葉の暴力への正当防衛にするのはダメ
ウィル・スミスの平手打ち事件が報じられるうえで1番の問題は、ここで「言葉の暴力も暴力だ!」という過度な一般化・抽象化が起こってしまうことだ。
Twitterでは「言葉の暴力」がトレンド入りし、ウィル・スミスと妻は言葉の暴力を受けたので、今回の暴力(平手打ち)は致し方なし!という論調があるが、これについては異議を唱えたい。
ウィル・スミスの行動を全否定したいのではなく、言葉の暴力というワードの登場が問題の勝手な一般化につながっているためによくないと思う。
そもそも今回のケースは捉える側の価値観・道徳観で意見が分かれるため、特殊なパターンとして認識すべき問題だからだ。勝手に主語を大きくしてしまうと誤解を生む危険がある。
今回のあくまで、酷すぎるジョークがアカデミー賞授与式で全世界配信された、自分のための暴力ではないなどの条件が重なり、総合的に心情的にウィル・スミスを擁護できる一面もある、となっただけだ。
仮にウィル・スミスがグーで殴ってたなど、少しでも条件が違えば世論はまったく違うものになった可能性も大いにありえる。
言葉の暴力VS暴力の図式に置き換えて、一般化した説明をしようとすること自体に少し無理があり、あくまでアカデミー賞におけるウィル・スミスとクリス・ロックのトラブルと、ある程度具体的に認識すべき問題だ。
先ほど説明したように擁護するかしないかは個人の価値観や感情の問題につながる。感情が関係するということは、抽象化して「この問題と同じだ」と並列にみえる構図を作り出すことで意味が大きく変わる可能性がある。
もちろんある程度身近なものに置き換えて思考するプロセスは必然だが、全貌について話すときには一般化させて語るべき問題ではないことをまず共通の前提としておくべきだろう(大人はいいかもしれないが、小中学生が変な解釈をしてしまう可能性もあるので)。
結果として今回のように擁護の意見が生まれるケースはあるが、事前にどう傾くか結果がわからない問題に対して、「言葉の暴力は体への暴力と同じだ」と、何にでも適応可能かのように語るのは、少なくても社会全体にとっていい影響を及ぼさないだろう。
(もちろん、何を前提とすべきかしっかりわかっている人もいると思うが、SNSやネットの特性上触れておきたかった)
最後に
スッキリ答えを出すのが難しく、ウィル・スミスのアカデミー賞暴行事件をスッキリまとめられたとはいえないが、何が本当の問題か気づくきっかけくらいにしてくれたら幸いです。
ここまでいろいろな例をあげて書いている私の意見は?と問われると、やはり「気持ちはわかるけど、公の場で暴力に訴えるべきではなかった」ということになります。
やや煮え切らない結論ですが、感情と行動で矛盾を抱えるのが人間であり、この問題を捉える人それぞれが、どう向き合うかで人間性が問い直されている側面もあるでしょう。
何か意見があればコメントをお願いします。