映画『怪物』LGBTQをエンタメとして消費した作品?クィアをネタバレ扱い,問題点と反論を解説

  • 2023年7月8日

是枝裕和監督と坂本裕二脚本の映画『怪物』について、性的マイノリティをコンテンツとして消費しているという意見があります。

果たして本当にそうでしょうか?それに対しての私の意見を解説していきます。

(映画『怪物』の作品自体の考察記事は下記へ)

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是枝裕和監督の映画『怪物』

(私自身はLGBTQ当事者ではありません。また、映画『怪物』ネタバレを含みますので未視聴の人は注意してください。)

映画『怪物』は、LGBTQ・クィアをギミックとして消費したのか?

大切なのは“オチ”を尊重しているか

映画『怪物』の問題点としてよくいわれているのが、「LGBTやQ・クィア(既存の枠におさまらない性自認)をオチとして使った」というもの。

2人の少年に同性愛の傾向があることがギミック(仕掛け)として消費されているという構造的な問題です。

この点だけを見れば確かにその通りです。映画『怪物』において「同性愛者だった」はある種のオチであり、それは否定できません。

シネマグ
ただ、本質は「このオチをどう扱かっていたか?」だと思います。

少なくとも映画『怪物』では「2人は同性愛者だったの!驚き!チャンチャン!」という安易な描き方はされていませんでした。

クィアを物語の中心に据えつつ、マイノリティとマジョリティの認識の齟齬は、マジョリティ同士の関係性でもあてはまると提示した作品だと思います。

言い換えるとクィアの少年2人とその他の登場人物をフラットに並べた作品です。

クィアとストレートの差別化がなされたのではなく、むしろ逆でしょう。

性的マイノリティの問題は、差別化ではなくマイノリティとマジョリティの同質化に帰結するわけです。(構造からみても脱構築的なすごいことをやってのけていると思います。)

よって映画『怪物』はLGBTQを結末・オチにしていたものの、マイノリティとマジョリティの差異を消費したような作品とは一線を画しているというのが私の結論です。

クィアをめぐる問題が一般化され、万人に当てはまるものになっています。

マイノリティとマジョリティの対立でなく、「誰もが多数派にも少数派にもなり得る」という解釈が適切ではないでしょうか。

要は対立や分断を煽っているのではなく、一段階フェーズをあげて社会や人間関係の普遍的な問題を浮き彫りにしているわけです。

これによってLGBTQだけではなく、その他の隠れたマイノリティとその問題点に気づくことができます。

誤解を恐れずにいえば、差異ではなく同質が浮き彫りになった結末にたいして、性的な差異がコンテンツとして消費されているという指摘は若干の矛盾を孕んでいいる気もします。

セクシャリティをネタバレ扱いした問題

製作側と配給の判断で、2人の少年・湊と依里が同性愛者だということが公開まで伏せられており、セクシャリティが明らかにネタバレ扱いされていたという具体的な指摘もあります。

これも仕方ない面があるというか、ネタバレ扱いというより「観客が性的マイノリティを想定していないことを突きつけるためのネタバレ厳禁」だったと思います。

視聴者に自分の視点の盲点を突きつける構造なので、先に答えを言ってしまうとまずい!という問題で、それがセクシャリティと重なってしまったような印象です。

感動ポルノ問題との比較

特定のマイノリティをコンテンツ消費と共通点のあるものとして“感動ポルノ”問題があります。

感動ポルノとは、障害を持つ人々の奮闘が健常者の感動として消費されるようなコンテンツです。エ○かどうかではありません。

障害を持つ人からすれば普通の生活なのに、「かわいそう、頑張って」など上から目線で見守られたら、本人はきっと嫌な気持ちになりますよね。

LGBTQがテーマの映画を見て、当事者が微妙な気持ち・嫌な気持ちになる構造と通底する部分があるでしょう。

なぜ当事者が嫌な気持ちになってしまうのかというと、「コンテンツを見ている視聴者は当事者のような経験や苦労をまったくしていないのに、表面上だけ知って共感した気になっているから」のようです。(何かの本で読みましたがそういう研究データがあるようです)

要は、「実生活では助けになってくれないのに、映画で感動してるんじゃねえ!」という話だと思います。ごもっともな話です。

映画『怪物』に対しても当事者目線ではこのような怒りが湧いてしまうのかもしれません。

ただ感動ポルノにも浅いものから深いものまで幅があり、見方によってはどれも感動ポルノです。そして少なくとも、一般層に現状を認知させるメリットはあります。

映画『怪物』でLGBTQの人々が不快な思いをしてしまうことを肯定はできません。ただ、社会の改善には議論を当事者以外に広げることが必要であり、『怪物』はその方面で貢献できたと思います。

『怪物』そもそもクィア映画ではない?

解釈や価値観の問題もありますが、先に説明した「差異ではなく同質化による問題提起の作品」ということを踏まえると、個人的には『怪物』をクィア映画にカテゴライズしてよいかは非常に微妙な問題だと思っています。

1番の主題になっているのはクィアではなく、人間は自分が見たいと思うようにしか世界を見れないというものです。

さまざまなディスコミュニケーションの最後にクィアが登場したと考えた方がより近いと思いました。

クィア映画としてしまうと母・早織、保利先生、伏見校長などの関係性が同列に語られなくなってしまい、結果として普遍的な問題提起にスポットが当たらず、本作が社会に与える意義が半減してしまいます。

カンヌ国際映画祭でクィアパルムドールを受賞し、メディアもそれを宣伝したことである種のバイアスがかかってしまうのはあり得る話だと思います。

誰かを傷つけない作品は作れない

映画『怪物』はLGBTQの当事者からの批判が多いようです。

統計は取れてませんが、ネット上では「性的マイノリティとその問題点が美化され過ぎている。正しく描かれていない」という理由が多かった気がします。

当事者からの批判は仕方ないと思います。当事者から見ればおかしな描き方があるのでしょう。

ただ映画の性質上、多少のデフォルメ・簡略化は回避できません。これはラブロマンスでも何でも一緒です。誤解を生みそうですが視点を広げれば「こんなイケメンの金持ちいねえ」問題と重なる部分があるでしょう。

尺や表現などさまざまな制約がある以上、“正しく描かれない”は避けられません

たくさんの人が見る映画を作る以上ある程度の配慮は必要ですが、メッセージ性をこめる以上、誰も傷つけない作品は不可能というジレンマです。

その前提がある以上、大切なのは当事者と作品を断絶させるような言説ではなく、映画『怪物』のように、自分の意見・見解が間違っていることを頭の片隅に置いて発信することではないでしょうか。

逆にいうとお互いにそういった考え方を持てなければ、ここまでしてきた議論自体が意味を持たなくなるでしょう。

少なくとも私は映画『怪物』に世界を変え得る本質がひそんでいると思います。