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映画『哭声/コクソン』ネタバレ考察!日本人の正体・キリスト教の意味

韓国映画『哭声/コクソン』の特徴マインドマップまとめ

見るのがなかなか辛い映画ってありますよね。決して面白くないわけではなくむしろ面白いのですが、重厚感がありすぎて脳が締め付けられる感じ。

その際たる作品が2016年の韓国映画『哭声/コクソン』(Wailing)です。

『チェイサー』で有名なナ・ホンジン監督が國村隼を“謎の日本人”として起用し、謎が謎を呼ぶ連続殺人に仕上がっています。

じっとりと降る不快な雨に心が侵食されるタイプの作品です。

そんな『哭声/コクソン』を独自目線で徹底考察してみました。

物語の構造日本人の正体キリスト教的な解釈別エンディングについてです。

完全ネタバレなので映画を読んでいない人はご注意ください。

映画『哭声/コクソン』ネタバレ考察

マトリョーシカ構造

『哭声/コクソン』はマトリョーシカ構造の物語だといえます。

山の中に住む日本人が犯人?→謎の女は何者?→祈祷師の男は敵?味方?→やっぱり日本人が悪者?

こんな感じで物語が進めば進むほど謎が少し形を変えて出てくるだけで、根本的な答えは一切提示されません。

開けても開けても同じ形の人形が出てくるマトリョーシカのような構造の物語です。

雨の中、手に汗握る死ぬ物狂いのシュチュエーションを経て何も答えがもらえない。

それが『哭声/コクソン』という映画です。

視聴者を精神的に追い詰める

マトリョーシカ構造からも、『哭声/コクソン』には視聴者を精神的に追い詰めるコンセプトがあるとわかります。

答えを与えず、疑わせ、混乱させていく。

視聴者はあらゆるピースを頭の中で組み合わせていきますが、ラストでガラガラと瓦解します。

明確な1つの答えを崇める愚かさを突きつけられるようですね。

韓国映画らしい後味の悪さと共に、「そもそも絶対的な真実はあるのか」などなど抽象的な疑問が浮かび上がってきます。

視聴者を追い詰め、絶対的な信条を揺るがせるというコンセプトは、踏み絵によって宣教師を徹底的に追い詰めたマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 サイレンス』にも通じます。

ちなみに『哭声/コクソン』と『沈黙 サイレンス』は奇しくも同じ2016年公開です。

日本人(國村隼)はキリストか?

國村隼演じる日本人の男性

冒頭では聖書の一節が映されます↓

“人々は恐れおののき霊を見ていると思った。
そこでイエスは言った。なぜ心に疑いを持つのか。
私の手や足を見よ。まさに私だ。触れてみよ。このとおり肉も骨もある”

ルカによる福音書 24章

さらにラストで若い神父が洞穴の中で見た國村隼演じる日本人の手には穴が開いてました。

聖痕ですね。磔刑にされたキリストである証明です。

中盤で日本人は一度謎の女によって突き落とされて主人公ジョングたちが乗ったバンに轢かれて死にます。

しかしその後、何事もなかったかのように復活して穴にいました。

よくよく考えてみるとこれもキリストの復活を意味しているのでしょう。

このように日本人=イエス・キリストと示唆されているのは間違いありません(まあ1つの解釈自体が野暮的な側面もあるので、他の解釈もありえるとは思いますが)。

ではこの日本人=イエス・キリスト解釈になんの意味があるかというと、「現代にイエス・キリストのような人物が現れても誰も理解できないだろう」というメッセージです。

本作を見て、日本人にはキリストの印があるにも関わらず、その不気味さから彼が聖者だと思えないでしょう。

若い神父が見たように、キリストが悪魔のような姿になれば、それがキリストだとまず信じられないと思います。

日本を嫌いな人も多い韓国人から見ればなおのこと、國村隼が聖者だとは考えられないでしょう。

これは私たちの頭の中にすでに偏見が潜んでいることの証明でもあるのです。

『哭声/コクソン』は「何かを新しい価値観を信じるむずかしさ」を提示しているように思えました。

視点を広げると、2022年現在アメリカで起きている中絶禁止の問題や、ロシアのウクライナ侵攻など世界各国の争いを解決するためにはこの『新しい価値観を信じる』という問題をクリアしなければならないと思います。

しかし敬虔なカトリック信者に中絶の理解をさせるのは大変なことですし、独裁国家で情報統制までされているロシアの国民に、ロシア側のプロパガンダやフェイクニュースについて話しても「嘘をついているのは西側」と言い返されてしまうでしょう。

『哭声/コクソン』はいつの時代にでも通じる人類の課題を提示した意義深い映画だと思いました。

別エンディング

Youtubeに別エンディングがあります。

日本人が待っていると祈祷師が車で迎えにくる。そして女性がそれを眺めるという結末です。

これだと日本人と祈祷師がグルだとよりハッキリわかってしまい、日本人=悪です。

サスペンスとしては面白いですが、深いメッセージ性が感じられません。

だからこそナ・ホンジン監督はこのラストをカットし、抽象的かつ普遍的な物語として映画を終わらせたのでしょう。

シネマグ
あくまで別パターンであり、この別エンディングがストーリーの答えではないと思います。