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映画『怪物』考察まとめ(ネタバレ)
ラストシーンの意味:柵と死
最後はさまざまな解釈ができるつくりでした。
ラスト結末では湊と依里が台風のあとに水びたしの廃墟の狭い通路を抜けて、鉄橋にかかる線路に向かって草むらを走っていました。
短期間で柵が外されるのは不自然なので、湊と依里は台風で死んでしまい、生まれ変わったという解釈ができます。
湊が早織に父の生まれ変わりの話や、自分が生まれ変わったら何になるかをしきりに話してたこともある種の伏線だったと判明。
草むらに出る前に2人は狭い洞窟・水路のような場所を通っていましたが、これは産道のメタファーでしょう。
2人は「生まれ変わったとかはないと思う…」と言っていました。
このセリフも死を匂わせますが、生まれ変わっても今の自分になることを選択=同性愛者である自分自身を肯定というポジティブな想いも同時に受け取れます。
本作の場合は希望のメッセージも込められていて、死の解釈だけにとらわれるのはよくないと感じました。
小説版では「鉄橋の前にあった頑丈なバリケードが跡形もなく消えていた」とこちらも意味深な表現でした。台風なら「吹き飛んだ」となるはずで、跡形もなくなるのは不自然です。
「未知の世界へ向かった…」という言葉が小説のラストになります。こちらも意味深です。
「坂元裕二さんの脚本最終稿では走っている湊と依里の後ろから母・早織と保利が声をかけるシーンがあるから、2人は生きてる!」という意見もあります。
しかし映画では、是枝監督ら制作陣が「この場面を削って死んでいる可能性をほのめかしたい」と判断したのかもしれません。
また早織と保利が声をかけていたとしても、それが現実なのか、湊と依里視点でのある種の幻想なのかもわかりません。脚本で断定することはできないでしょう。
描写としては死んでるっぽいけど、生きてる可能性も残されている。たとえ死んでいたとしても悲しみのメッセージではない。この辺が落としどころではないでしょうか。
怪物はだれ?正体は?
怪物については解釈が多様ですが、あえて答えを出すなら相手と自分の視線の食い違いに気づかず、真実と真実・正しさと正しさがぶつかり合っている可能性を想像できない人物を指しているのでしょう。つまり登場人物全員に怪物の要素があります。
真実は1つだと思い込み、結果として多様な考え方を許容できなくなるのは、人間に豚の脳を移植した怪物の思考だと言い換えることもできます。
ひとつの答えに囚われてしまっては解決への道は開けません。
例えば母・早織の“普通”に結婚して幸せになってほしいという願い自体も真実で、完全に悪だと言い切れません。しかし無意識に他の可能性(湊の真実)を排除する言動をするとき、怪物が現れます。
(シンプルにウソをついた子供や、ビルに火をつけた依里、同性愛者の依里を「豚の脳」と呼ぶ父が怪物!という解釈もできますが、それ以上の意味があると思いました。)
- 母親については、息子が“普通”だと決めつけているとき。担任・保利がウソをついていると誤解して激怒したとき(モンスターペアレント)
- 湊にとっては依里を好きな気持ちがいけないことだと思い込んで保利先生についてウソをついたとき
- 依里にとっては、父が入りびたるガールズバーを燃やせば虐待がなくなると思い込んだとき
- 依里の父親にとっては息子が性的マイノリティだと認められないとき
何かひとつの価値観や固定観念に囚われたときに怪物が首をもたげて現れ、悲劇をうむのです。
湊と依里は頭に掲げたカードを当てるインディアンポーカーのような怪物ゲームを楽しんでいます。カードの中には頭がハート型で黒い怪物が入っており、誰しもときに怪物になりうるという真理が込められているようです。
湊が管楽器で吹く音が怪物の声のようだったのは、自分自身が怪物だったと認めたからでしょう。
湊は心の中の怪物に気づいた瞬間に何が大切かを悟り、夜に依里のもとへ走って行ったのだと感じました。
怪物とは何かの答えとラスト結末のながれに、感動的で美しいメッセージがありました。
そして怪物でないと思った人に怪物の側面があること、怪物だと思ってた人物が人間であることがわかります。
ただ、気をつけてほしいのが「これが怪物だ!」と言葉で安易な断定をした時点で、あなたにも怪物性が憑依してしまうということ。
答えが流動的な問題をあなたの視点で決めつけてしまうことになるからです。
“怪物”を使って人間の思考のねじれを芸術的に表現したのが本作なのです。
また、SNSでよくあったのは「怪物は最初からおらず、みんな人間」という意見。これも根幹は「みんな怪物」と一緒だと思います。
いわゆる“普通”の人間に怪物性が「ある」と捉えるか、「ない」とするかの違いですね。
個人的には普通のバイアスを悪気(わるぎ)なく押し付けること自体に恐怖を感じるので、これから社会を変えていくうえでも怪物をいない!と決めつけるのでなく、正体なき怪物について考え続けることが重要だと思いました。
(価値観や表現の問題も入ってくるので正解はないと思います。)
校長の足かけ伏線、死んだ孫
田中裕子さん演じる伏見校長先生は、母親の視線からはすごく不正直で頼りなく映ります。
スーパーでははしゃぎ回る小さな子供に足を引っ掛けていましたね。
校長は少し前に夫が庭で車を駐車しようとしたら孫をひき殺してしまった悲しい事故を経験。さらに「実は孫をひいたのは校長自身ではないか?」とウワサされています。
音楽室で湊が「好きな子がいると言えなくてウソをついている」と言った際に、校長も「私もウソをついている」と言ったので、おそらく校長がひいてしまって夫が身代わりで刑務所に入ったのは事実なのでしょう。
(脚本では「救急車を呼んでる間に“1人で”死んでしまった…」と書かれているので、夫はその場におらず、やはり校長が孫をひいた可能性が高いです。)
校長の利己的な決断に見えますが、罪を償うために1人でも多くの子供の人生を救おうと小学校に戻ったのではないでしょうか。
スーパーで足を引っかけたのも意地悪ではなく、その子が自分の孫と同じく事故に遭わないよう「走り回ったら危ない」と教えたかったのだと思います。
小説版では校長の孫が5歳くらいの女の子。スーパーで足を引っかけたのも5歳くらいの女の子という共通点があるので、やはりその子の将来を案じて足が出てしまったのでしょう。
校長が湊と依里の関係をどこまで知っていたかわかりませんが、死んだ孫の写真を机の上に飾りなおして抗議に来た母親(安藤サクラ)の位置から見えやすくしたのも、「湊と依里の秘密が望まれない形で暴露されることを防ぐ」決意や、母親に湊と依里の真実を受け止めてほしい願いがあったのかもしれません。
「(いじめを)やっていない」と言った保利に対して校長はボソッと「でしょうね…」と言っていました。ということは、湊と依里に何かがあるのだとやはり気づいていたのでしょう。
また伏見校長はビルの火事の日にライターを持ってうなり笛を回している依里に会っており、小説版の『怪物』だと依里が火をつけた可能性を考えている描写があります。
校長は問題を抱えていそうな依里に孫娘の姿を投影して、彼がビルの火災で捕まってほしくないと思ったとも考えられますね。
革新的なテーマのひとつ「誰かじゃないとつかめないものではなく、誰にでもつかめるものが幸せ」という大切な言葉を湊に伝えていましたし、言葉にできないことをトロンボーンにすることも湊に教えましたし、校長が子供たちの幸せを願っていることに偽りはないはずです。
校長は本作の中でも緻密で重要なキャラクターでした。校長を怪物的に見せておいて、第3幕でそうではないとわかる構成もすごいですね。
作文の鏡文字の意味
依里は文章がところどころ鏡文字になってしまいます。依里の作文の頭文字は「むぎのみなと、ほしかわより」と、湊と依里の名前になっていました。
鏡文字は作品に対して重要なメッセージを持っていると思いました。
鏡文字は依里自身のパーソナリティを表しているのでしょう。すなわち男の子が好きな男の子という“ふつう”とは反対の性質です。
鏡文字は依里の思いがそうさせているのかもしれません。彼が望むのは反対の文字=自分が、虐待されずに正当化される世界です。
同性を好きな依里と湊が正当化される世界が誕生すればいい。そんな彼の願いが込められているようでした。
なぜ湊は「保利先生がいじめる」とウソをついた?
湊はなぜ「保利先生からいじめを受けている」とウソをついたのでしょうか。
それは正直に依里のいじめのことを話せば、依里と自分の関係までバレてしまうと考えたからだと思います。
「いじめを話せば仕返しされる・標的にされてしまう」というより、湊は依里への想いが大人たちに知られて関係が壊されることを恐れたのでしょう。
保利は何度か「男らしく…」という言葉を口にしていました。
保利は優しくていい先生だけど、男女の関係を当たり前だと思う怪物を飼っている。
湊の目にはそう映ってしまったのではないでしょうか。
また誤植の指摘(週刊誌の誤字脱字の指摘)が趣味の保利は、正しさの象徴でもあります。
「男らしさ」も踏まえて、ただ1つを正解とする問題点を表現したのが保利というキャラクターなのです。
湊は「保利先生に豚の脳と言われた!」と訴えました。
保利は決して悪い人間ではありませんし、湊が“豚の脳”を保利が言ったことにしたのは、保利と母を対立させることで湊自身の葛藤に気づいてほしかった面もあると思います。
クビになった保利が学校にやってきたときに湊が逃げたのは、自分の秘密のために彼を陥れてしまった罪悪感からでしょう(小説版にはその記載があります)。
線路や電車、ビッグクランチ
湊と依里は線路へ向かって草むらを笑い合いながら走ります。
線路は2人の希望の未来のメタファーになっているのです。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜で、ジョバンニとカムパネルラが一緒に旅立ったみたいな、ある種の救いが描かれていました。
また依里は小学5年生にしては科学に詳しく、ビックバンで始まった宇宙が膨張をやめたら逆に宇宙が縮小して時間の逆行が起こる=ビッグクランチについて話していました。
ラストで時間逆行が起こった!と言いたいわけではないですが、橋の廃線路のまえの柵がなくなっている・水路の水が少なすぎるなど不思議な描写がいくつかあります。
あくまでも抽象的なフェーズで、ラストは湊と依里はお互いが素のままでいられる生死を超えた理想世界へ到達したと受けとめてもよいかもしれません。
2人が秘密基地である電車の中に土星など飾り付けをしたのも、銀河鉄道の夜のストーリーになぞらえて誰も知らない場所(宇宙)へと旅立ちたいという願いが込められていたのでしょう。
消しゴムで止まった理由
早織が買い物に行って帰ってくるまでの間に湊が消しゴムを拾おうとしているところで固まっているシーンがありました。
時系列的には湊が依里と会えなくなって心配している時期です。なので心情としては湊が依里のことを考えすぎて止まってしまったとわかります。
湊が自分の書いた作文を消すシーンなどを考慮すると、消しゴムには自分のアイデンティティを消したい、やり直したいという意味があるのでしょう。
ただ、これらの理由だけだと早織の買い物中にずっと静止していた理由としてはモヤモヤが残ります。「ずっと静止していた」以外の表現でも良さそうです。
推測も入りますが、依里が話していたビッグクランチ(膨張しきった宇宙が元に戻る、時間が逆行する)が関係していると思いました。
湊は落ちた消しゴムに「元に戻れ!」と願いを込めていたのかもしれません。(子供の頃にハンドパワーとかやったことがある人が多いと思いますが、そんな感じです)
消しゴムが元に戻ればビッグクランチが発動したことになりますよね。
ビッグクランチが起こって依里と楽しく遊んでいた頃に時間に戻れたら…そんな願望が謎の行動をさせたのかもしれません。
あとはもっとシンプルに湊は消しゴムを2回落としていただけで、早織が見たときにちょうど同じ体勢だったから湊が静止していたと錯覚したと考えることもできます。早織は最近の湊の行動を心配しすぎて、深読みしてしまったのかもしれません。
他者への勘違いを排除できない人間の業をさらっと入れ込んだというわけです。
『怪物』脚本と映画の違い比較と解説
脚本の決定稿と映画本編の1番大きな違いは、湊が依里の家に行って浴槽でぐったりしている依里を助けて一緒に倒れたときに、伏見校長がやってきて2人を介抱したこと。
校長は湖のほとりにいて自殺をしようとしていたような描写があり、そのとき自転車で走る湊を見つけたので追ってきたのです。
校長は依里と湊に死んだ孫を重ねて「2人が行きたいところに行きなさい」と言います。
映画だとほとんど気を失っている依里が急に回復するので若干違和感がありましたが、脚本だと伏見校長が2人を介抱していたんですね。
映画で校長が出てくると、なぜ嵐の中で湊と依里を外へ行かせたのかわかりにくいのでカットされたのでしょう。
湊と依里が孫と重なったこともあり、幸せに向かって自主的に行動しようとする2人を止められなかったというのが校長の行動原理だと思います。
映画で表現するのは難しそうですし、何より校長が終盤で2人の間に入ってしまうと印象がだいぶ変わりそうです。
また同級生の木田美青がBL漫画を読んでいて、湊と依里の関係に気づいており、湊を呼び出してカミングアウトをうながすシーンもはっきり書かれています。
おそらく、カットの理由はテーマが非常に複雑になるからでしょう。人間関係の認識のズレを伝える以外に、性的マイノリティをBL漫画と重ねてエンタメ消費してしまうという視点も入ってしまいます。
あとはラストも、脚本は廃鉄道の柵が消えている描写がないです。そして早織と保利が(湊と依里を)後ろから呼ぶ声が聞こえたという描写があります。
脚本では湊と依里は生きていて、私たちに何かを訴えかけているという印象が強いです。
一応ことわっておきますが、脚本は映画の解釈の正解ではありません(撮影時に変更することがよくあるので)。参考にするくらいが良いと思います。