考察3:私たちはアーサーだ。でも誰もアーサーを気にしない
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は盛大なジョークであり、ヒーロー映画に対するアンチテーゼであり、それどころか映画に対するアンチテーゼでもあった。
アーサーは前作に引き続き、明白に社会の弱者である。知能指数も低く、嘘をついて接近するハーレイに純粋に恋をしてしまう。
そしてアーサーは裁判で自分を弁護しようとする。しかしジョーカーの存在を認めなかったことでハーレイや他の信者たちに愛想を尽かされる。誰もアーサーなど気にしてはいないのだ、みんなが気にするのはジョーカーだけだ。
社会の弱者が成功する物語には注目するが、弱者自身には誰も注目しない。この映画自体が渾身のジョークに思えた。
世界では格差社会が広がり社会的弱者と言われる層も増えている。アーサー=私たちなのだ。生きるためにはジョーカーのフリ…何かすごいことができるフリをしなくてはならない。アーサーだと等身大の自分を認めた瞬間に誰からも関心を持たれなくなってしまう。そんな世間の残酷さが表現されていた。
考察4:ハーレイ・クインの正体
Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)は親密な2人が同時に狂うという意味のフランス語だが、ハーレイ・リー・クインゼルが冷静にジョーカーに近づいた面があり、結局はジョーカーの1人狂いだったのように見えるのも皮肉だ。
ハーレイがアーサーの独房にどうやってこれたのかもよくわからないし、セッ○スも妄想だった可能性もある。
Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)というのはアーサー視点で「俺とリーは最狂のコンビだぜ!」だったが、当のハーレイにそこまでの狂気はなかったようにも見える。
ハーレイは精神科医としてジョーカーに興味があったのと、ジョーカー信者だった半々のように感じた。彼女は狂気の側ではなく、狂気に乗せられたが熱が覚めた我々観客と同じ立ち位置にいるようにみえた。
ラストで若い囚人に刺されたアーサーはハーレイに腹を撃たれる妄想をしていた。ハーレイの正体=私たち観客。そう考えると、期待はずれだ!と言ってアーサーを殺したのは私たち観客でもあるのだろう。
考察5:前作との決定的な違いを『キング・オブ・コメディ』から紐解く
DCコミックスなのにヒーロー映画っぽさはゼロ。
さらに、前作で参考にしたマーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』の真逆をいく、フラストレーションが爆発すると見せかけて爆発しない反映画的な構造も見逃せない。
映画『キング・オブ・コメディ』は、2019年に公開されるや否や空前の大ヒットを記録している『JOKER(ジョーカー)』のストーリーの元ネタとなっている。 ネタバレありで、あらすじやラスト結末、そして何が面白い映画なのかを語っていく。 […]
前作は『キング・オブ・コメディ』と同じカタルシスがあるが、今回はペテン師がペテンのまま死ぬだけの物語である。
考えてもらえばわかると思うが、フラストレーションが爆発すると見せかけてしないパターンは全く映画向きではない。アーサーが殴られ、罵倒され、ハーレイに離れられ…そしてほぼ何も起こらずに殺される。起承転結の“転”の部分がない。
いろいろ考えると『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は凄まじい意欲作ではあった。(しかし面白いかどうかは別の話だろう…)。
ジョーカーやバットマンの関連記事
ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ホアキン・フェニックスなど、名だたるレジェンド俳優たちが映画のスクリーンで演じてきたジョーカー (Joker)。 ジョーカーを演じた俳優別で比較してみると、キャラクターの容姿や性格、役作[…]
- 1
- 2