映画『エンドレス・ポエトリー』を見た。
カルト作品で有名なアレハンドロ・ホドロフスキーによる2016年の自叙伝的作品で、同監督の『リアリティのダンス』の続編となっている。
今回は、青年アレハンドロ・ホドロフスキーが詩人に成長する物語が描かれていた。”詩”というテーマだけに、アーティスティックなものを期待したが、当てが外れた。
個人的にそう感じた理由を考察してみた。
映画『エンドレス・ポエトリー』ネタバレ感想・酷評:つまらないステレオタイプの前衛
前衛的・アバンギャルドないわゆるアートっぽいステレオタイプなシーンのオンパレードである。
例をあげると、
- 人が急にパネルになる
- 黒子が見えちゃってる
- ホドロフスキーのママが喋べる時ずっとオペラ調
- 初めての恋人が太っており、超喧嘩強い
- 超低身長者との恋愛
などなど。
しかし、これらは、どこか頭で考えた、所謂“アートっぽいだろ!”という押し付けがましい印象が強い。
それに、どこかで見たことあるような気もする。格段に新しいアイデアというわけではない。
今まで無かったものが見られる!という期待を持たせて、どこかで見たことあるようなものを見せてしまうのは、アートとしては結構イタイ気がする。
もちろん、アレハンドロ・ホドロフスキーが青年期の話なので、「芸術の感性も成長段階だった!」ということを伝えたい、という細かい意図もあるのかもしれないが・・・見る側からすると退屈である。
映画『エンドレス・ポエトリー』アレハンドロ青年に感情移入できない
映画内のアレハンドロ・ホドロフスキーという人物自体がちょっとぶっ飛んでいたため、悩んでいるシーンでさえ、アレハンドロ青年にシンパシーを抱くことはできない。
まあ、本物の芸術家を正直に描けば、常人が感情移入できないものになるのかもしれないが、エンドレスポエトリーでは、アート面でも伝わってくるものが少なかったので、もう少し主人公に共感できるようなシーンを加えてもよかったと思う。
映画『エンドレス・ポエトリー』考察/演技・音楽・テンポなどがハマってない
先ほど、どこかで見たような設定やシーンが多くて退屈だという話をしたが、それより、もっと深刻な問題が、“ハマっていない感“”である。
どこかで見たようなアートであっても、完成度が高ければ、気持ちよく受け取れるが、エンドレスポエトリーの場合は、演技・音楽・テンポ(間)などが噛み合って無かったように思える。
ハマっていないとか、噛み合ってないとかいう感想は、ひどく抽象的でわかりにくいかもしれないが、もう少し踏み込んで考えてみると、作り手自身がこのシーンに対してどう感じていたか?という部分が見えなかったということだ。
作り手が、「このシーン超素晴らしい!」と思えば、多少(数秒でも)そのカットは伸びるだろう。さらっと流す部分と、じっくり見せる部分、そういうダイナミクスがなかったのは残念だ。
エンドレスポエトリー は低予算映画なので、時間を掛けられなかったという側面もあるのかもしれないが、見る側からすると、そんな事情は関係ない。
詩がイマイチ響かない
エンドレスポエトリーは詩の話なので、どんな詩を聞かせてくれるのかワクワクしていたが、けっこう微妙なものが多かった。言葉として好きだったのは「燃える蝶」くらいだっただろうか。
詩に関しては、原語はスペイン語なので、スペイン語から日本語に訳する過程で、良さが失われてしまった可能性が高い。
詩は言葉の意味だけでなく、韻やリズムも大事なので、元の原語以外に訳すのは至難の業である。直訳しても意訳してもダメなのだ。訳者が、詩に精通していないと、どだい無理だろう。
とにかく、スペイン語がわからない日本人として、エンドレスポエトリーを鑑賞した場合、詩は心に響かないものが多かった。詩人の話なのに、残念である。
最後に評価まとめ
アート映画として、『エンドレス・ポエトリー』は上手く行っていなかったという理由を列挙してみたが、賛同いただけただろうか?
別に僕の言うことが全てではない。この映画が素晴らしかった!という人もたくさんいるだろうし、そう思えた感性は立派なものだと思う。
一番いけないのは、アート作品を見て、つまらないと言えない雰囲気を作り出してしまうことだ。こういう同調圧力は映画やアートを衰退させてしまう一番の原因になるだろう。
なので、最後にハッキリと僕の結論を言っておく、「エンドレスポエトリーは、つまらない。」