グッバイ、リチャードネタバレ考察:共感を排除した詩的な作品
『グッバイ、リチャード』では、人間として偽りなく生き抜くメッセージと、孤独の自己実現がバッティングして、共感に乏しい映画だったことは確かだ。
具体的にいうと、主人公リチャードは自分の気持ちをほとんど語らないし、彼目線で写るシーンも少ない。
ただ、そういうハードボイルドなキャラは多いし、他の人物の見せ方でリチャードの気持ちがくみ取れるようになる。
しかし本作の場合は、周囲もめちゃくちゃドライ。
妻は浮気相手と仲良くやってるので、最後も「バイバイ」という感じ。娘と親友がちょっと泣くくらいだ。これでは共感できない。
せめて、彼の生き方が生徒へどう影響を与えたかを、きちんと描くべきだった。
監督・脚本のウェイン・ロバーツは、共感でなく詩的な表現を追求したのだろう。主人公は英文学者だし、映画を一編の“詩”にする意図はあったように思える。
最後の道無き暗闇へ突っ込むシーンが文学的で感動できた。あとは最初の学園の池にズブズブ歩いて入っていくシーンは詩的だったと思う。
しかし全体としては、その方向に舵を切り切れなかった。
敢えて共感させない?グッバイ、リチャードの酷評を踏まえた感想
海外大手批評サイトロットントマトズで『グッバイ、リチャード!』の評価を見てみると、100点中、批評家たちの点数はなんと10点。
The Professor (2019) – Rotten Tomatoes
いくら何でも低評価すぎる気がするが(個人的には70点くらい)…。
理由は鑑賞中共感できなくて、「知らない人がカッコよく死んでいくなあ」みたいな気持ちにしかならないのだ。
ジョニー・デップ主演の映画で例えると、『リバティーン』に限りなく近い。
他の例を出すと、映画『鬼滅の刃 無限列車編』は独白がめちゃくちゃ多くて感動できたけど、それと真逆の構造が、うまく機能していないようだった。
ジョニデは離婚した女優アンバー・ハード(アクアマンのヒロイン)とドロ沼裁判中なので、「もう孤独にカッコよく死にたい」そんな願望があったのかもしれない。それを『グッバイ、リチャード!』で表現したのだ。
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