実写『違国日記』考察:定義づけしない大切さ
大人になる矛盾
本作は大人とは何かが問われる作品だった。
槙生が言った自分の気持ちは自分にしかわからない、自分の気持ちは自分だけのものという、朝を突き放すような言葉が印象的だ。
槙生の言葉は大人の言葉なのだろう。
しかしそんな彼女も大人になり切れているとはいえない。元カレの笠町との関係もフワッとしている。
ある面では誰もが大人になり切れていないし、笠町が言ったようにある時期から急に大人になるものでもない。
大人とは言葉の定義だけで、みんなはその言葉に囚われているだけのようだった。
1番よりも大事なもの
両親という絶対的な関係性を失った朝は、一生懸命にお互いを1番と呼べる関係を作ろうとする。
しかし槙生には笠町がいるし、えみりには彼女がいる…自分は1番ではないのだろう。そう考えていた朝は槙生から、みんなが朝のことを大切に思っている!とあたりまえのことを言われる。このシーンは本質を突いていると感じた。
朝は1番という言葉を作りたかっただけなのだ。本当はそれぞれの関係性が唯一無二で大切なものであるにも関わらず1番を欲していた。朝はその矛盾に気づいた。
「1番に思い合える」という言葉があれば安心できるかもしれない。でも本当に大事なのは、代わりのいない関係性のほうなのだろう。
きっと朝はそれに気づけたのだと思う。
言葉にできないものに目を向ける
本作からは、言語化できないことにも大事なものがたくさんあると感じられた。
海辺で槙生が朝の肩に手を回す。2人の関係性はこのシーンに象徴されるようなもので、かくかくしかじかです!と定義づけられるようなものではない。
大切なことは言葉にできないことに隠されている。『違国日記』はそれを映像で伝えてくれる作品だった。
日本は海外と比べて自分の意思を曖昧にすることも多い。曖昧とは、言葉にしないことだ。しかしその曖昧さの中に美学がある。邦画が本作のようなスタンスを目指すべき理由はここにある。
『違国日記』は極めて日本的な作品だった。