『落下の解剖学』ネタバレあらすじ解説:真犯人は?
(ネタバレ少なめのまとめ←)
自宅から落下して死亡した夫・サミュエルは、殴られてから落ちて死亡したのか?自殺なのか?犯人は妻のサンドラではないか?
息子・ダニエルは、「散歩に行く前に両親が何か話し合いをしていた」と証言。警察が立ち会ってその証言の正確性を判断しようとすると、当初は家の外に出たときに2人の会話を聞いたとの証言が、やっぱり家の中で聞いたと変わってしまう。
ダニエルは視覚に異常がある。その理由は、数年前に夫のサミュエルがダニエルを学校に迎えにいく予定にもかかわらずお手伝いさんに任せたところ、ダニエルが事故にあってしまったからだった。
そして裁判ではサンドラに関する事実が次々に出てくる。
- サンドラはバイセクシャルであり、息子の事故のあとに女性と不倫をしていた
- 夫・サミュエルのアイデアをパクっていた
- 夫が死んだ前日に大喧嘩をし、夫を叩いていた
- 弁護士はサンドラの元カレ
世間はサンドラが犯人ではないか?と憶測をする。
最後には、息子ダニエルが証言台に立つ。
そして父・サミュエルが何かの薬を吐いて、それを犬のスヌープが食べてしまったこと。
さらにサミュエルが「スヌープ(犬)や、大切な存在はいつかはいなくなる」とダニエルに話して自殺をほのめかしていた…という証言をする。
それらが決め手になり、サンドラは無罪に。
真犯人は?
中盤でサンドラがやった?と思わされそうになるが、結局、真相は闇の中。
鑑賞者には真相を知る手立ては与えられず、「サンドラが犯人では?」という決めつけ自体を批判するコンセプトの作品だ(サンドラがやっていないとも確定してないが)。
好きに犯人を推理することはできるかもしれないがあまり有意義ではない。限られた情報の中で断定することの危うさを問うた映画だからだ。
『落下の解剖学』を視聴後に犯人が誰か?を考察しているようなら(否定はしないが)、メッセージを十分に受け取れていないかもしれない。
ニーチェのパースペクティヴィズム
『落下の解剖学』はニーチェのパースペクティヴィズムについての映画だと思った。
パースペクティヴィズムを簡単にいうと、現在の状況が今後も続くと人間が考えてしまう、思考の罠のこと。
日本語では遠近法主義とも言ったりする。遠近法のようにひとつの視点からしか相手を捉えられないという意味。
狭い視点で見たものが、あたかも全体をつくっているように考えてしまうことがパースペクティヴィズムだ。
よく例として挙げられるのが、凶悪な犯罪の件数がここ数年右肩上がりなのを見て、日本はどんどん治安が悪化していると考えてしまうこと。もっと広く数十年のスパンで件数をとれば凶悪犯罪は大きく減っているので、日本の治安がどんどん悪化している!は正しくない。これと同じことが映画の中でも起こっている。
映画の中でサンドラは「語られていることは全体の一部でしかない」との趣旨の発言を3〜4回していた。パースペクティヴィズムに通ずる言い分だ。
これは検察に向けられた言葉でもあるが、実際はわれわれ鑑賞者に向けられた言葉である。
裁判がすすむにつれ、サンドラが不倫をしていたこと、死んだ夫・サミュエルの構想を本にして出版したこと、サミュエルの録音によりサンドラが暴力を振るっていること、家事や育児をほとんどサミュエルがやっていること、さらに弁護士のヴァンサンが元カレだと判明。
サンドラの隠し事が露呈していくので、どうしても「やっぱサンドラが殺しているのか?」と思わされてしまう。しかしそれこそが、パースペクティヴィズムだ。
不倫や夫婦の不仲、弁護士が元カレなどの事実は、サンドラが夫を殺害したことと論理的には何のつながりもないからだ。
サンドラの人間性の一部を知って彼女の全部を把握した気になり、なんか悪そうなやつだから夫まで殺しているだろうと事件の全貌を断定してしまうのは浅はかだと告げると同時に、人間はその罠から逃れられないとも説いている(結局は息子ダニエルの主観的な証言が判決に影響を及ぼした)。
裁判ですら、全体の一部分によって印象が左右され、判決が変わってくる。パースペクティヴィズムを排除するのではなく、避けられないものとしてどう向き合うか?私たちは鑑賞後にしっかり考えるべきだろう。
雑に見えるカメラワーク
映画的な綺麗なショットがあると思ったら、人物が見切れていたり、途中からピントをカクカク合わせにくるようなカメラワークが目立つのも特筆するべき点だと思う。
結論からいうと、雑に見えるカメラワークは人間の認識の不確かさを表現していたのだろう。決して全体を捉えられない人間の不器用な目の動きを表したかったのだと思う。
現代人は何を学ぶべきか?メッセージ
パースペクティヴィズムしかし『落下の解剖学』は現代に生きる人の思考のクセを露呈する作品だった。先入観をなくすことはできないが、自分が何らかの先入観を持っていることは痛感できる。
人々に自分が先入観を持っているというメタ視点があれば、世の中はもっとよくなるのではないだろうか。そんなメッセージが込められていた。
よくある芸能人の不倫問題などを聞くと、「こいつ最悪じゃん!」とついつい思ってしまう。しかし、真相はメディアからの情報を見ている我々には決してわからない。夫が女遊びをしてたとしても、もしかしたら妻が精神的DVを夫に加えていた可能性もあるかも。そんな例外的なケースの場合、白黒やゼロ百思考で「やったことは悪だから人間性を全否定」との判断を下すのは早計に思える。
人間関係でも、こいつは〇〇なヤツだ!とすぐに決めつけてしまうのではなく、例外的なケースかも…と念頭に置いて接するのが、『落下の解剖学』が教えてくれた知的な態度ではないだろうか。
そういう意味で現実を変えうる素晴らしい作品だったといえる。